1756年、ザルツブルク生まれの作曲家は、4歳で父親から音楽の手ほどきを受けていました。5歳の時に、初の作品を作曲し、間もなく「天才少年」の曲として上演されました。
6歳の時、ヴォルフェルは、シェーンブルン宮殿で女帝マリア・テレジアとその家族の前でピアノ演奏を披露しました。その翌年には、コンサートツアーを行い、ドイツを始め、フランス、英国、イタリアを訪問。
大司教の宮廷管弦楽団の主席演奏者として、大司教と仲違いをしてウィーンに居を移しました。生涯作曲した楽曲全体の半分以上は、ウィーンで過ごした10年の間に生み出されました。芸術家としては宮廷音楽家として成功を収めたにも関わらず、借金が増えていきました。
1791年12月5日、無ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、無一文でウィーンで亡くなりました。
ヨハン・シュトラウスは、作曲家・ヨハン・シュトラウス(父)の長男として生まれました。父親は、息子が音楽の道に進むことを望まなかったこともあり、銀行員としてのキャリアを進みました。しかしながら、若きヨハン・シュトラウスは密かにバイオリンを学んでいました。そして、すでに1844年には、自らのダンスオーケストラを結成し、15名のメンバーと共にウィーンのレストランで活動していました。
1849年に父親が亡くなると、自身のオーケストラと父親のオーケストラを編成してツアーを開始し、ロシア(1865から1866年)と英国(1869年)を訪問しました。この成功により、シュトラウスの名はオーストリア以外の国々でも知られるようになりました。
シュトラウスは、1870年が終わるにあたり、オーケストラの指導者としての地位を兄弟のヨセフとエドアルドに譲り、ウィーンのオペラ時代の黄金期における重鎮的な存在へと転身を遂げていきました。
ヨハン・シュトラウスは、1899年に73歳で、故郷のウィーンで亡くなりました。
『Morgenblätter』(1864年)を筆頭に、『Künstlerleben』(1867年)、 『Geschichten aus dem Wienerwald』(1868年)、『Wein, Weib und Gesang』(1869年)、『Wiener Blut』(1871)、『Kaiserwalzer』(1888)など、多くの楽曲と素晴らしいワルツを世に送り出しました。
しかし、シュトラウスの最も有名な作品は『An der schönen blauen Donau』(1867年)で、このメロディーは19世紀の歌として知られるようになりました
ヨハン・シュトラウスが作曲した約500を数える舞曲のうち、150曲以上がワルツでした。演劇作品の中では、『Die Fledermaus』(1874年)が古典的なウィーンオペレッタとして知られています。そして、『Der Zigeunerbaron』(1885年)も大成功を収めました。また、『Der Karneval in Rom』(1873年)や『Eine Nacht in Venedig』(1883年)といったオペレッタも有名です。